2014/01/31

後継者不在問題

 

 

 こんにちは。今回担当させていただきます保健学科の上村佐知子です。
 何について書こうかと迷いましたが、私に思い浮かぶのはやはり私個人の困りごとです。この内容は昨年の9月に岩手大学で開催された2013年度 北東北国立3大学連携推進会議連携協議会「男女共同参画シンポジウム」や、12月の平成25年度第2回コロコニトーキングでもお話しさせていただいたものの一部です。

 最近、実家の両親の健康問題が発生しました。いつかは訪れることなのですが、二人とも70代、ちょっと早いのではないかと思います。私の実家は県南の山奥で畜産業を営んでいますので、両親の体は長年の肉体労働で消耗が激しかったのかもしれません。私は小さい頃から、休みなく働く両親を見て、早くゆっくりしてほしいと思っていましたが、全くその気配はありませんでした(今でも不自由ななりに動き回りますので、介護認定を受けるどころではありません)。
 私の兄弟は、姉と妹がいますが、二人とも遠方に嫁いでいます。一番近くに住んでいる私は、両親が生きているうちは両親の面倒を見て、その後は実家の家や財産(というほどのものはありませんが)を処分していかないといけなくなるでしょう。
 まず、取りかかっているのは、牛の数を減らすことです。父親は、県で売り出し中の義平福の繁殖・肥育を手掛け、やりがいを感じていましたので、とても残念そうです。可哀想ですが仕方がありません。何度も何度も説得し、現在約半数に減らしてもらいました。
 それから、親戚や近所の人に頼んで歩き、いざとなったら連絡を入れてもらえるようにしました。また、地域包括支援センターなどから、地域の情報を収集しました。
 家の老朽化が進んでいるので、住みやすいようにリフォームを提案していますが、「後継者のいない家にどうしてお金をかけるものか…」と父は嫌味たっぷりです。そうしているうちに、ここ数年の大雪…。私も雪下ろし作業に駆けつけました。実家の玄関は、道路からぐるりと回ったところにあるため、除雪する距離が長く大変です。除雪に嫌気がさした父親が、玄関の位置を変えるリフォームに同意したのは言うまでもありません。最近の降雪量は、予想をはるかに超えているため、両親に強い不安を植え付けました。過疎、後継者不在、そして未だかつてない大雪…。雪下ろし作業困難…。
 歳を取ることは経済面や健康面、人間関係など多くの「喪失」を伴うものだと言われています。たくさん得た人ほどたくさん喪失します。生まれる時も死ぬ時も身体一つです。子どもが最初からいなければ、子が嫁いでしまったとガッカリすることもないわけです。しかし、両親の場合は、自分たちが得たもののほかに受け継いだものも失うという人並み以上の苦しみがあるのは言うまでもありません。そんな両親の深い喪失体験を目にしながら、できることなら強い不安を感じることなくこの先過ごしてもらいたいな、と思いました。母一人になったら、雪に悩まされないマンションを検討しようと、こっそり母に耳打ちしました。
 今後さらに大変な状況が到来することが予想されますが、焦らず冷静に対処していきたいと思います。私のような困りごとを抱えてらっしゃる方がいらしたら、是非助言をお願いいたします。                 

大学院医学系研究科 保健学専攻 理学療法学講座
上村佐知子

 

2014/01/20

新年あけましておめでとうございます

 

 

 旧年中はたいへんお世話になりました。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 お正月にはさまざまな行事が行われてきました。今から1300年前、わが国の古代国家が国の形を創りあげようとしていた時代には、元日に天皇が大極殿(だいごくでん)に御して百官の賀を受ける朝賀の儀がありました。皇族、在京諸司官人や入京中の地方官人、外国使節など多くの人びとが朝庭で天皇を拝しました。拝賀がおわると節会の宴が与えられました。朝庭とは「庭」。屋外です。天候が悪ければ儀式はできません。霊亀2年(716)は雨のため中止、養老3年(719)は大風のため翌日に延期されました。霊亀2年の場合は、朝賀はとりやめられましたが、5位以上の官人には朝堂で宴が賜られました。
 この元日朝賀の儀に、京から遠い南九州や北東北から参列した人びともいます。航空機も電車もない時代のことです。平城京遷都の年、和銅3年(710)の朝賀は藤原宮大極殿で行われましたが、薩摩隼人(さつまのはやと)と蝦夷(えみし)が拝賀しました。霊亀元年(715)、完成した平城宮大極殿での朝賀には陸奥・出羽の蝦夷と南嶋の奄美・屋久島・徳之島などの島民が来朝し、地方の産物を貢納しました。朱雀門の左右には楽隊と騎兵がならびましたが、元日の儀式に鉦鼓(せいく)を用いるのはこのときからはじまったと『続日本紀』に記されます。
 古代の秋田は京から遠く離れた辺境の地でした。しかし、秋田には平城京バージョンの役所の建物が造られました。国指定遺跡・秋田城跡からは、秋田が外交上の拠点であったことを推測させる遺物も出土しています。古代国家にとって、辺境の地は要地でした。
 さて、平成25年度女性研究者研究活動支援事業(拠点型)機関に秋田大学が選定され、わたくしどもは、「架橋型ソーシャルキャピタル」の形成による女性研究者支援に取り組んでおります。より働きやすい環境づくり、持続可能な支援システムづくりを目指して、精一杯つとめてまいりたいと存じます。交通アクセスでは少々不便な秋田ですが、積極的な情報発信をしてまいりますので、ご支援、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

男女共同参画推進室長 渡部育子