秋田災害忘れじの旅ある記 その4 男鹿市五里合にある震災復興の石碑【水田 敏彦】(24.12.27)

 2012年最後のコラムは、1939年(昭和14年)男鹿地震に関する旅ある記です。男鹿地震は男鹿半島付近で発生したM6.8の地震であり、死者27名、全潰家屋479棟という被害が生じました。図1にこの地震による被害分布を示します。男鹿半島の頸部に被害が集中し全滅した集落もあります。死者の発生は男鹿半島全域に広がり、斜面崩壊も多く人的被害につながっています。この地域では1810年(文化7年)にもM6.5の羽後地震が発生しており死者57名、全潰1,003棟が生じています。また、男鹿地震による被災域は秋田県沖で発生する地震による被害も繰り返し受けており、1964年(昭和39年)男鹿沖地震や1983年(昭和58年)日本海中部地震などがあります。

図1 男鹿地震の被害
(住家全潰率:●30%以上 ◎10~30% ○1~10% ◇0.1~1% △0.1%未満 アンダーラインは死者のある町村集落)
[被害分布は萩原の報告(東京大学地震研究所彙報1939)を基に作成]


写真1
男鹿市五里合にある震災復興の石碑
[2012年12月(水田撮影)]

 男鹿地震の激震地域は震央から10㎞程度離れた男鹿半島北東部の五里合(いりあい)村であり、ここに震災復興の石碑があります。碑文には、地震により灌漑用の堤防が決潰し水田の用水を確保できなくなったこと、勤労奉仕団の応援により導水路を掘削し7月7日(地震の発生は5月1日)全田地の作付けを終了したことが書かれています。地震発生時の男鹿地方の状況は、秋田魁新報の記事に『被害激甚地たる男鹿地方は出稼者、応召者多く罹災者は頼るに家なき窮状』とあるように、出稼ぎや応召軍人が多く若い労働力が不足していました。そのような中、震災対応については、警防団によって救援や復旧活動が数多く行われています(警防団:戦時体制下民間の消防や防災・防空のため1939年に組織された)。秋田魁新報の記事に『男鹿地方の大震災に注がれた県下警防団員の出動人員は七日現在で二千四百五名』と記されています。ところで、地震発生後の避難行動については、秋田魁新報の記事に『五里合村、ツナミが襲来するというので部落民は殆ど裏の山手に避難』、『男鹿中村村民、全部寒風山山麓に布団を背負って辛くも避難』と記されています。男鹿地震の6年前、1933年(昭和8年)三陸地震津波の際に岩手県で多くの津波被害が生じており、そのためか当時の男鹿住民は津波発生を恐れ、高台へ避難していた状況がうかがえます。
写真1が男鹿市五里合にあるこの石碑です。五里合の「神谷はまなす公園」から国道101号線を200m程度北上するとこの碑があります。また、神谷はまなす公園の付近には、1983年日本海中部地震の津波慰霊碑が建立されており、この場所に来襲した津波の高さが示されています(写真2)。
 
 
写真2 日本海中部地震の津波慰霊碑と神谷はまなす公園(右)[2012年12月(水田撮影)]