秋田災害忘れじの旅ある記 その2 地震の痕跡と仙北郡の惨話【水田 敏彦】(24.6.14)

1896年(明治29年)8月31日陸羽地震は、秋田・岩手県境の山間部に発生したマグニチュード7.2の内陸地震であり、真昼山地の秋田県側には千屋断層、岩手県側には川舟断層がそれぞれ出現しています。現在、美郷町にある坂本東嶽邸(美郷町指定文化財)の入口付近より山側を見ると、水田にのり上げた千屋断層(国指定天然記念物!)を見ることができます。この地震を引き起こした断層の一部です(写真1)。

写真1 美郷町(旧千畑町)にある地震の痕跡[2012年6月(水田撮影)]
写真奥、山側の地面が地震によって隆起しています

図1 陸羽地震による仙北郡の被害と地震の痕跡の位置
[被害分布は震災予防調査会第77号(1913)を基に作成]

図1は陸羽地震による住家の全潰率を地震発生当時の町村ごとに示したものです。この地震による被害は秋田県側が圧倒的に大きく、特に被害の集中した町名をとり「六郷地震」とも呼ばれています。秋田県内の被害は死者205名、住家の全潰5682棟、山崩れ9899箇所等となっています。また、直前の地震として、陸羽地震発生の2ヶ月半前の1896年6月15日には明治三陸地震津波が発生しています。岩手県沿岸部では甚大な被害を受け復興の最中で、沿岸部町村では再度の地震の発生が大きく捉えられています。巌手公報(現在の岩手日報)の記事に、釜石町午後7時の時鐘に惑わされ『狼狽の極町民は右往左往に逃げ迷ひ』、町民は『又もや海嘯(かいしょう:津波のこと)或は地震の襲来かと恐怖の余り戸板を并(なら)べ或は莚(むしろ)を敷き戸々の前に丸飯を用意し夜を徹し』と記されています。

この地震による人的被害の発生状況や原因については、「秋田震災誌」の中に死傷者発生の惨状を仔細に記した「惨話」があり、犠牲者一人一人について記録されています(秋田震災誌:各市町村が提出した災害状況の報告を秋田震災救済会で取り纏め、震災翌年の1897年11月30日に発行)。この史料を判読すると、205名の犠牲者のうち194名の状況を読み取ることができます。以下に内容の一部を『 』で引用して示します。

陸羽地震は午後5時頃に発生し、多くの人々が田畑で農作業を行っていたために、家族全員が在宅していた場合は少ないようです。また、夕食の支度をする時間にあたり、台所での犠牲者が多くなっています。仙北郡千屋村では『家族多くは農事の為め田畑に出て家には嫁産後十四日目なる以て独り留主居し炉端にて長男を抱き産児は襁褓(おしめ)に入れ傍に置き飯を炊き居たる際激震となり逃出さんとせるに忽ち転倒され起んとする間に図上より屋舎潰倒し来り落木のため圧殺』されて、母子3人が死亡しています。また、一度戸外へ出た人が、子供や高齢者の救助や火の始末といった地震後の行動により命を落としたものも多く見られます。例えば仙北郡横堀村では『夫が田畑に出でし後病床中なる長男と共に家に在り烈震に驚き難を避けんとせるが長男は病中進退自由ならざれば先つ之れを伴ひ戸外に出し再ひ家内に入り炉火を消留め更に出んとする所へ家屋忽ち倒れ落ち其身は屋下に圧され』妻が死亡しています。

人的被害の要因としては、家屋の倒潰とそれに伴う圧死者が多数発生し全体の91%(176名)を占めます。地震の被害というと、東日本大震災以降津波の危険性が改めて認識されていますが、一方では、住宅の耐震性は確実に向上し被害は減少しています。しかし、未だ不十分であるように思います。陸羽地震の惨話は、地域防災の出発点が住宅の耐震化であることを改めて示す事実です。

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