秋田大学研究者 新山喜嗣教授

Lab Interview

自分は死ぬとどうなる?~「死」の核心に迫る~

日本人がもつ「死」=「無」という考え

 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、死を「三人称の死」「二人称の死」「一人称の死」の3つに分類しました。ニュースや新聞で知るような、見知らぬ人の死は「三人称の死」に分類されます。「二人称の死」は、非常に身近な人の死についてです。家族の死や、無二の親友の死がここに分類されます。そして「一人称の死」は自分自身の死についてです。『自分が死ぬとどうなるのか』、それは人類の永遠のテーマといえます。
 人類はこの疑問に対し、いくつもの答えを用意してきました。それが宗教です。人類の発展と共に、原始宗教から世界宗教にいたるまで様々な宗教が生まれてきました。そしてほぼ全ての宗教が、死後の永遠の存続を約束しています。人類は宗教を信仰し、死によって完全に無に化すという思考を否定してきました。

 ところが、現代の日本人はある意味無宗教である、と新山教授は話します。もちろん淡い宗教の片鱗はあります。お正月行事やお盆の帰省、仏教由来の言葉や行事は多く残っていますが、イスラム教徒やキリスト教徒達のような厚い信仰心を持っているかというと、疑問が残ります。
 実際、日本人の多くは仏式の葬儀を行いますが、仏教の教えに沿った死生観を全員が持っているわけではありません。お葬式で参列者が故人に対し「天国でも元気で…」などと声を掛けることがありますが、天国という概念は仏教とは無縁で、キリスト教の考えです。それほど、日本人の「あの世」に対する概念は、宗教と切り離されたものになっています。

 しかし日本人は何も信じていないわけでもありません。日本人は現代科学を強く信奉している、と言われています。人間は生きていくために、あるいは生活を豊かにするために、科学の産物を積極的に取り入れてきました。現代科学によると、人間の記憶や意思、感情は脳のメカニズムによるものだと明らかにされています。また、死によって脳の崩壊が起こり、それらが失われることも判明しました。そのような背景もあり、特に日本人には「死」=「無」という考え方が強くあります。

「先生、死ねばなんとなるんだすか」

 死に対する恐怖や不安から来る苦痛を和らげることを「霊的サポート」と言います。海外の病院では「チャプレン」と呼ばれる宗教家や教会の牧師が霊的サポートを行っており、学校にもチャプレンが雇用されています。それほど海外では緩和ケアが重要視されており、常勤のチャプレンが居なければ、総合病院の設置基準を満たさない程です。しかし、日本の病院にはチャプレンなどの設置基準がありません。そのため、多くの患者さんは宗教的な関与がないまま、人間の死に対する霊的苦痛「スピリチュアルペイン」を抱えています。

 「私は臨床にも携わっていますが、末期がんで死が確定しているような患者さんに『先生、死ねばなんとなるんだすか』と聞かれることがあります。そのような質問に対し、自分が死んだ後の周りのことが心配なのかな、とお茶を濁すような返事しかできませんでした。もちろんその心配もあるのですが、患者さんが訴える死への心配はそこではありません。死というもの自体、自分が死ぬということ自体を心配していたのです」

 日本人は、いつ死ぬのか分かっているのが嫌で、ピンピンコロリを望む傾向にあります。つまり寝たきりのような終わりの見えない辛さが続いてから亡くなるのではなく、老衰などでいわゆる『ぽっくり』往くことです。それに対しアメリカ人は、自分の死期が分かっているほうがいいと言います。あらかじめ自分の余命が分かっていれば、身の回りを整理するなど、死に向かう準備ができるからです。これは、信仰心を携えた相当数のアメリカ人が死を受容している何よりの証拠です。また、アメリカでは緩和ケアも充実していて、モルヒネ(がんの痛みを緩和する鎮痛薬)が、日本の約20倍使われているといわれます。日本では、医者は病気を治すことが仕事だとされているので、緩和ケアに対する考えが定着していないといいます。

極楽浄土は定員オーバー?

 とある所に、『自分は善行をしたから極楽浄土に行けるに違いない』と思っている人がいました。しかし『極楽浄土には、今生きている人間の何倍もの人数が居座っているだろう。そうなると、極楽浄土はかなり手狭で、自分が腰を下ろす場所はもはや無いのではないか』と懸念し、その人はホモ・サピエンスの累計人数について調べたそうです。
 その結果、ホモ・サピエンスは誕生の瞬間から今まで、約150~200億人存在したことがわかったそうです。そして現在の世界人口は約80億人。すなわち今生きている人間と同じくらいの人数しか亡くなっていないことが判明しました。その人は『それならば自分の座るところくらい残っているだろう』と安心して亡くなっていったそうです。
 この数値データは驚くべき人口爆発であると言えます。もう10年も経つと、団塊の世代が高齢期を迎え「大量死の時代」に差し掛かります。今は1年に100万人余りが日本で亡くなっていますが、それ以上の人数が毎年亡くなるような時代が訪れます。死への関与が希薄な日本人にこそ、死に関する学問が必要であると新山教授は話します。

 哲学者の中でも死生学について研究する人は少数派で、新山教授はその少数の哲学者たちと一緒に「人文死生学研究会」を定期的に開いております。元々「臨床死生学会」という学会があり、対人援助者や医療従事者などの学問的なレベルだけでなく、ボランティアなどの市民的なレベルまでも巻き込んだ活動を展開しています。しかし臨床死生学会はあくまでも三人称、二人称の死を対象とし、一人称の死については宗教による捉え方次第であるとする結論に絶えずいきついてしまいます。
 「多くの日本人は、自分が余命幾ばくも無い状況に陥ったときに、現代科学を放棄して宗教を信じることに抵抗を感じてしまいます。そのように宗教を持たない人に対しても、死とはどのようなものであるかという回答を考えるのが人文死生学研究会です。現代科学が進歩し宗教が縮小した今、死について真正面から考える時代がやってきたのだと思います」

死の核心部分をさぐる

 現代科学では、生きてきた時代の記憶や性格は脳の崩壊と共に失われると先に述べました。新山教授はそのような自然科学的な合理性を尊重しつつ、自分がここにいたという「特異点としての私」は死後も残存するのではないか、と研究を定義しました。
 「自分が今ここにいるのはとても不思議な事です。約80億人いる人間の中で、自分はかけがいのない特異点としての存在です。その自分が無になり、二度とこの世界に現れないまま永遠に時間が流れるとすれば、多くの人々に戦慄を伴う恐怖感を与えます。しかし特異点としての自分は、外界の時間の流れとは独立して、死の時点で時間性としての性格を帯びなくなる、というのが私の主張です。研究の最終的な到達点としては、人間は死後に無と化したままそれが永遠に続くという死生観をはっきり否定するものとなります」

 これまでも死に関する論考や解説書が、それほど多くないにせよ世に出されてきました。しかしそれらは、何らかの宗教的な主張を目的とするものを除けば、死の核心部分である『死後に人間がどうなるか』という問題については慎重に避けられていると新山教授は感じています。つまり、その主眼はあくまでも現在の生をどのように全うすべきかに注がれており、死の外回りについての記述に終始しているのです。これは、死の核心部分には目を塞ぐべきだとし、死後の運命については宗教が語るべきとしているようにさえ見えます。
 「私は死の核心部分をさぐり、ストレートに『人は死ぬとどうなるか』を見定めてゆくつもりでいます。秋田大学は全国的に教員による出版物が少ない大学なので、定年退職までの二年間は出版物の発信をして、秋田大学に貢献したいと思っています」

死への感覚を大切に

 死は、普段の生活から見えにくい所にあり、深い海底にべったりと貼り付いた貼り絵にも似ているといいます。しかし大海はすべてがつながっています。例えどこから潜っても、行き着く先は一緒であり、最後には海底にある死の驚くような光景を目にすることができると、新山教授は話します。

 「死や自分の特異点に対する感覚は、10代の頃に一番敏感に持っています。潜在的にその感覚を持ち続けている人はいますが、いずれ目の前にある生活の雑事に興味関心が移ってしまいます。そして、死に対する自分なりの心構えが十分に整う前に、不意に死に追いつかれてしまうのです。死を目前にして10代の頃の感覚を思い出しますが、思ったほど考える時間は残されていません。しかし、自分の死に対する考えを若い頃から持っていると案外楽になれます。そして皆が死を受容することができたらいいなと思います」
 無宗教な日本人が「自分の死」を恐れることなく、死について真正面から考えることができるよう、新山教授は『人は死ぬとどうなるか』を探り続けます。

(取材:広報課)
※掲載内容は取材時点のものです

大学院医学系研究科 保健学専攻
作業療法学講座
教授 新山 喜嗣 Yoshitsugu Niiyama
秋田大学研究者 新山喜嗣教授
  • 秋田大学 医学部 1983年03月卒業
  • 【所属学会・委員会等】
  • 日本医学哲学倫理学会、日本生命倫理学会、日本精神病理学会、日本精神神経学会