秋田災害忘れじの旅ある記 その3 地震による湖の出現と手堀の隧道【水田 敏彦】(24.8.24)

地震に伴う土砂により川がせき止められ、いわゆる地震湖が形成されることがあります。最近では、2004年(平成16年)新潟県中越地震や2008年(平成20年)岩手・宮城内陸地震の際にクローズアップされました。この湖沼は、永続的なものであれば「堰止湖(せきとめこ)」と呼ばれます。神奈川県秦野市の「震生湖(しんせいこ)」が有名で、これは1923年(大正12年)関東地震の斜面崩壊により生じた堰止湖です。また、現在十二湖として知られる大小の湖は、1704年(宝永元年)の能代地震で生じたものと言われています。

写真1は、今から約100年前、1914年(大正3年)の秋田仙北地震によって仙北郡大沢郷村布又集落(現大仙市)に出現した地震湖です。土砂が田んぼを埋め、川をせき止め、池や沼と化した様子が見て取れます。秋田仙北地震は秋田県南東部で発生したM7.1の内陸地震であり、死者94名、住家の全潰640棟等の被害が生じました。被災の中心地の地名から「強首(こわくび)地震」とも呼ばれています。図1はこの地震による被害分布を示したものです。住家の被害は震央に近い雄物川沿いと横手盆地中央部で大きく、山地部については住家の全潰は少ないものの、斜面崩壊が広範囲で発生しています。


写真1
大沢郷村布又集落(現大仙市)に出現した地震湖
[大沢郷村震災史(1918)より]
図1
秋田仙北地震の被害(●斜面崩壊 数字は住家全潰率%)
[震災予防調査会報告第82号(1915)および秋田魁新報の記事(1914)を基に作成]

斜面崩壊により最も大きな被害を出したのは大沢郷村の布又集落で、秋田魁新報の記事に『数百尺の高峰の中にある部落なるが大音響と共に前方の高峰は全部打ち割れ家屋大の岩石は飛び数丈の杉の木は埋没し』その結果『三十間長さ二町余の筍形の沼を造り水の深さ一丈八尺に達し為めに家屋は水に没したるより部落民其他の応援に依り八十間を切り開き排水に努め今は減水しつつあり』と記されています。逆境に立ち向かい、 地域住民の生命と生活を守るため、先人たちが隧道(ずいどう:トンネルのこと)掘削を思い立ち、手掘りで開通させました。現在でも一部が残されており、ゴツゴツとした手堀の跡から、当時掘削に携わった人々の想いを感じることができます。写真2が地震湖の排水のため掘り抜いたこの隧道です。
写真2 地震湖の排水のため切り開いた手堀の隧道[2012年8月(水田撮影)]

西仙北インターを降り、刈和野街道から出羽グリーンロードを南下、布又橋の少し上流にその姿を見ることができます。付近には、「布又地震震源地」と書かれた立て札が立っています(写真3)。

写真3 布又橋(左)と秋田仙北地震震源地の立て札(右)[2012年8月(水田撮影)]
立て札は写真手前、手堀隧道は左側下にあります