高齢者にとって最適な運動プログラム ~ずっと健康でいるために~
理学療法発祥の地 アメリカへ渡る
理学療法(Physical Therapy:PT)は、身体に障がいのある方、または障がいの発生が予想される方々に対し、基本的な動作能力の回復を図るために、運動療法や日常生活動作の指導、温熱・寒冷・光・水・電気・マッサージなどの物理的手段を思考・探求する学問です。
若狭教授の専門領域である老年期障害理学療法学は、加齢に伴う運動機能の低下に対して、機能を維持していくためのアプローチを図ります。高齢化の進む秋田県にとって、非常に密接な学問であると言えるでしょう。
理学療法はアメリカが発祥とされ、日本での歴史は、実はまだ50年ほどです。若狭教授が理学療法士を目指していた頃、日本には4年制の国立大学PT養成コースはなく、3年制の国立短期大学の養成校は13校しかありませんでした。理学療法士数も約1万人と現在の10万人よりも少なく理学療法が浸透していない時代でした。秋田大学医療技術短期大学部(現:秋田大学医学部)を卒業後、理学療法士として病院で勤務していた若狭教授。さらに新たな道を拓くため、アメリカのミズーリ大学セントルイス校大学院に留学を決意し、「老人学:Gerontology」を専攻しました。
老人学は、1903年にロシアで誕生した比較的新しい学問であり、1940年代頃からアメリカなどで先進的に発達してきました。加齢に伴う身体的・心理的な問題に対する科学的なアプローチにとどまらず、高齢化社会に伴う社会的・経済的・政治的・異文化的等の様々な課題に向き合うため、医学、心理学、社会学、福祉学、リハビリテーション科学等の幅広い学問領域が交わる、とても学際的な学問と言われています。若狭教授は日本で老人学が確立されていなかった時代に、いち早く目を付け、主に理学療法分野における高齢者の運動機能低下に焦点を当て、調査研究に取り組みました。実際には健常高齢者に対する身体運動機能評価の調査研究、大学が主催する身体運動プログラムプロジェクトに携わりました。このアメリカでの経験が、現在の研究の礎となっています。
「アメリカの高齢者は自立心が強く、“自分のことは自分でやる”という考えをもち、生きいきとして積極的でした。日本では歳を取ったら子どもに面倒を看てもらうという考えが一般的でしたが、近年進む核家族化や老老夫婦、独居老人の増加を背景に、必然的に日本の高齢者も自立しなければならない世の中になってきています。地域包括ケアシステムの『自助・共助・互助・公助』の体制が、ちょうど当てはまってきたと思います」
高齢者の運動機能評価と適切なプログラム
秋田大学着任後は、高齢者に対する運動指導が身体運動機能にどのような影響をもたらすのか?そしてその効果の経時的変化を検討するため、秋田市内在住の高齢者を対象とし、運動指導と運動機能の評価に取り組んでいます。まずは全対象者に対し、身体運動能力を評価します。筋力・バランス能力・歩行速度など、全ての運動機能を評価した上で、若狭教授らが作成した運動プログラムを5か月間指導します。そして5か月経過後に再び運動機能の再評価を行い、その評価結果を比較検討することにより、運動プログラムの成果を見ます。
若狭教授いわく、秋田市内における参加者の運動能力は、他県と比べ差はほぼなく、また運動プログラムに参加することで、平均年齢72歳の高齢者でも運動機能の向上が認められているようです。
「毎年1か所ずつ対象地区を増やしてきたこの取り組みも、早いもので10年になります。これまで秋田市の約300人(平均年齢72歳)の身体運動機能データを得ることができました。一番長く参加している方は10年間継続的に評価されていることになります。このデータから秋田県または全国における高齢者の運動機能の推移を反映しているとはまだ説明できませんが、運動機能を評価し、運動能力を維持するというプログラムとしては、有効であると思います」
働く世代、中高年のための「いいあんべぇ体操」
高齢者の運動機能維持のための取り組みは、介護予防を目指す秋田市の地域包括ケアシステムの一貫です。若狭教授らは、5か月のうち2週間に1回ほどのペースで活動に介入して運動指導を行っていますが、最終的な狙いは、地域の皆さんが自発的に集い、この運動を続けてもらうことです。地域の方同士で助け合い、モチベーションを維持する環境づくりも課題のひとつです。
「測定して得られた全ての評価項目に関するデータは参加者にお返しします。その際に、各データの持つ意味を説明し、またそのデータを基に各自でグラフ化するように促しています。『去年』のデータと『今』のデータを自ら見比べる、確認することにより、運動に対するモチベーションを保つことができます。『悪くなってきたからダメだ』と諦めるのではなく『代わりにここを鍛えればカバーできる』という前向きな切り替えも大切です。自分自身の身体にもっと気を向け、『ながら運動』でもいいので日常生活に運動を取り入れるように指導しています」
いずれも若狭教授が監修
「いいあんべぇ体操」のパンフレット
しかし、地域の方だけでは正しい運動指導が難しい部分もあります。そこで若狭教授は秋田市保健所の依頼を受け、わかりやすく簡単にできる運動を紹介した「いいあんべぇ体操」のパンフレット制作を監修しました。このパンフレットは骨や関節の健康をずっと維持できるように、全身のストレッチ運動、筋力増強運動、バランス運動の三本立てのプログラムを、イラスト付きでわかりやすく紹介しています。もちろん、効果や安全性は若狭教授の折り紙つきです。監修にあたっては、仮に指導者がいない場合でも地域の方だけで簡単にできるような、わかりやすい運動の選択を心がけたそうです。
「いいあんべぇ体操」のパンフレットは秋田市保健所、市民サービスセンター、地域包括支援センターで無料配布されています(65歳以上)。高齢者を対象に監修された運動プログラムではありますが、もちろん若い方にも有効な運動です。「いいあんべぇ体操」で検索すると、PDFファイルのダウンロードも可能です。
さらに、パンフレットの好評を受け平成29年にはDVDも制作しました。DVDは秋田市保健所で無料で借りることができます。また秋田市内で活動する団体には配布も行っています(要申請)。YouTube(秋田市公式YouTubeチャンネル)でも閲覧が可能です。
遠隔医療リハビリテーションシステムの開発~秋田大学と羽後町をインターネットで繋ぐ~
現在、インターネットを利用した遠隔医療リハビリテーションシステムの開発を進めています。無線通信機器とタブレットを学外へ持ち出し、タブレットのカメラで遠隔地の様子を、大学に設置したカメラで指導担当の様子をそれぞれ撮影し、インターネットを通じて、相互にスクリーンに映し出します。お互いがスクリーンを見ながら、運動方法を指導し指導される、これまで現地に直接出向かなければならなかった運動指導も、インターネット回線を用いることにより、現地に直接行かなくても指導が可能になりました。このような運動指導を平成28年より、大学から90km離れた羽後町の協力の下、取り組んでいます。「このシステムが確立されることにより、指導者の移動時間と経費を大きく削減できると同時に、利用者はいつでもどこでも、実際に映し出した画像を見ながら運動をすることができ、お互いがコミュニケーションを取ることができるというメリットが期待されます」
学生には実践を
医学部保健学科理学療法学専攻は、ペアやグループワークが多く、少人数での実技に力を入れています。また、早い時期から臨床実習を設けており、理学療法士の国家試験合格率は100%を維持しています。
「もちろん普段から臨床をイメージした授業をしていますが、実技は学生同士で行っているため、いざ臨床実習で実際に患者さんを相手にすると戸惑う学生が多いんです。そこで、定期的に開催される「いいあんべぇ体操教室」には、サポートとして学生を連れて行くこともあります。実際に一般の方を相手に運動指導をし、時間を共有する機会を得ることは必要だと思います」
「教室内の授業と現場の違い」を痛感する学生も多く、現場を経験するかしないかでは、大きな差があるようです。
さらに若狭教授は、大学の授業に高齢者が参加できるような機会があればと考えています。授業を通して医学的な知識を得ることにより、身体を動かすことの大切さを理解して日常生活に活かすことができるためです。学生にとっても高齢者の方と触れ合う良い機会となり、学内の運動評価機器を使っての実践も可能です。ただし、高齢者の方が実際に大学に足を運ぶとなると、交通手段や開催場所(教室)、そして万が一の場合の対処など、実現するには様々な問題をクリアしなければならないと若狭教授は話します。しかし、地域に出て活動を行っていると「一緒に授業を受けてみたい!」と希望する高齢者の方も多いと言います。若狭教授がアメリカで見てきたような「地域に開かれた授業」が実現する時が訪れるかもしれません。
心の変化に気付き寄り添うことで、救われる人がいる
理学療法は直接的に身体にアプローチを行い、運動機能の回復、または日常生活動作の再獲得のためのリハビリテーションを行うものです。一見、きつい筋トレばかりかと思ってしまいがちですが、理学療法士のサポートに、心も支えられている患者さんも多いようです。若狭教授も理学療法士時代、その飾らない気さくな人柄で多くの患者さんの心と身体を支えてきました。
「運動療法で身体の動きを楽にすることも大事ですが、患者さんが精神的に落ち込んだりした時は、その心の変化に気づき寄り添います。目に見える障がいのこと、目に見えない障がいのこと、この二つの障がいを乗り越え、退院される姿を見送ることに大きな喜びを感じました」と若狭教授は振り返ります。
実際に担当した患者さんやご家族からの、お礼のお手紙を見せていただきました。そのお手紙は今でも若狭教授の宝物であり、心の支えになっているそうです。患者さんは怪我や障がいと戦いながら、目に見えない不安とも戦っています。常に「人」を対象とする医療では、高度な知識や技術だけではなく、心に寄り添うことで、人を救えることがあるようです。
(取材:広報課)
※掲載内容は取材時点のものです