秋田大学研究者 佐藤猛教授

Lab Interview

英仏百年戦争を通して国境や国家の成り立ちを学ぶ

複雑な領土の重なり合いを清算するために

 佐藤准教授は、フランスを主戦場として約1世紀続いた百年戦争が当時の英仏やヨーロッパにとってどのような意味を持ったのかを研究しています。かの有名なジャンヌ・ダルクが登場したり、中世ヨーロッパでペストが大流行したりしたのもこの時代です。
 百年戦争の始まりは1337年とされています。高校世界史の教科書などでは、その約10年前、フランスで王朝が断絶したことで血縁関係からイングランドの王がフランス王位継承を主張しましたが、フランス側がその要求を退けたことで両者に対立が生じたとされています。しかし、王位継承問題が起こされたそもそもの背景にはイングランド王がフランス国内に保有する領地の問題があったと佐藤准教授は話します。
 元々イングランドの王はフランスの貴族であり、フランス王の家臣という立場にありました。日本の歴史で例えるなら、鎌倉時代の御恩と奉公の関係です。御家人が将軍に仕える代わりに領地をもらう、まさにフランスの王とイングランドの王の関係はこれとよく似ていました。12世紀中頃、イングランドでは王の跡継ぎがいなくなり、フランスの貴族だったアンジュー伯ヘンリが王になりました。彼はアンジュー帝国と呼ばれる西フランスとグレートブリテン島にまたがる広大な領土を持っていましたが、西フランスでは王ではなくフランスの王の家臣という立場でした。この複雑な関係を清算するために起きたのが私たちが「百年戦争」と呼ぶ戦いです。

国の成り立ちを研究する中で辿り着いた百年戦争

『百年戦争』中公新書ツイッターより

 日本やイギリス、フランス等の国の単位がいつどのように生まれたのかに興味を持っていた佐藤准教授は、学ぶうちにそれが中世ヨーロッパの時代であったことがわかり、現在の研究にたどり着いたといいます。
 百年戦争が始まるまでの領土交渉は、領土の規模を調節しながら国の重なりをどう保つかという方法でしたが、それが次第に変化し「そもそも領土が重なるのが良くないのではないか。ここまでがフランス、ここまでがイングランドと線を引いた方がいい」という考え方に変化していきます。これが私たちの言う国境です。この国のこの王様の領土はここまでという考え方が百年戦争を通じて芽生えたと佐藤准教授は言います。
 それまでは疑問になってこなかったとしても、「フランス王国にイングランド王の領土があるのはおかしい」という議論が交わされ、「一つの国には一つの言語、一つの領土には一人の王様」という今でいう国家が徐々にできていきます。佐藤准教授は「国境、国家がどうできたのかという答えに最も近い道が百年戦争の経緯やその間の英仏の交渉過程を明らかにすることだとここ10年程で思うようになりました」と話し、これが百年戦争の一番大きな意義であったと考えています。

百年戦争を通して変化する言語

 百年戦争中は、フランス人はフランス語、イングランド人は英語というように各国の言語を使っていたと考えがちですが、実際はイングランドの王がフランス出身だったためイングランド王の宮廷や法廷で主に使われていた言語はフランス語だったそうです。「お互いに意思疎通が取れるからこそ対立点も明確になり、争いが長期間続いたのです」と佐藤准教授は言います。
 しかし、ジャンヌ・ダルクが活躍した15世紀ともなるとイングランド王の周りでも英語の使用が広がったため敵国と同じフランス語を使うことは兵士たちの士気が下がり、軍事力でも交渉でも不利な状況となっていました。交渉が思うようにいかなければ「今までフランス語で議事録を作っていたが、これからはラテン語で残せ」と要求したり、手続きに関することに不服を漏らしていたそうです。そして、イングランドは戦いの最中で自分たちの言葉を少しずつ使うようになりました。フランス語から各国の言語に変化していくという流れもまさにこの時代だったのです。

キリスト教会の役割

国際文化コースの先生方と執筆した編著『ペストの古今東西』

 「百年戦争」と聞くと100年間途切れることなく戦っていたように想像するかもしれませんが、実際に戦場で戦ったのは数えるほどしかなかったそうです。戦争は沢山の死者が出る上に武器や食料等のコストもかかるため、全体的に見ると戦闘の自制を誓った休戦期間の方が長く、少し戦い休戦するということを繰り返したと言われています。特に、イングランドの兵士は海を渡って大陸で戦ったので、勝利を確実に期待できる時をねらって、戦いました。
 「休戦する時は話し合いで、お互いの陣地の中間に位置する教会等で交渉が行われます。そこに王様が居合わせることはありませんが、代わりにカトリック教会の聖職者が同席しました。彼らは「和平が無理ならば休戦を」と呼び掛け、時には間に入り「今回は4年の休戦でその間にまた平和条約を練りましょう」というように取り決めていました」
 中世ヨーロッパでは戦争が起こるとその間に入るのは中立のキリスト教会だったといいます。現代では、出生届や婚姻届、死亡届といった役所に提出するようなものも当時は教会で記録が残されたほど、中世ヨーロッパの教会は大きな存在でした。さらに、時計がない当時は時間を教会の鐘で認識していたそうです。教会は政治的権力を持っているだけではなく、日常生活まで統べることが自然な状態だったのです。

ジャンヌ・ダルクが伝説と化した経緯

 世界史にも登場し、フランスの国民的ヒロインとも呼ばれたジャンヌ・ダルクは百年戦争の末期に活躍し、フランスの危機を救ったことで知られています。しかしジャンヌ・ダルクはなぜこんなにも有名になったのでしょうか。
 村娘だったジャンヌ・ダルクは13歳の時に神のお告げを聞き、16歳の時には村を出て預言者として天からの啓示を王に助言していました。預言が本物かどうかに明確な根拠があったわけではなく、聞く人々の立場や時代背景にも影響されました。ただ、ジャンヌの時代では、庶民が神のメッセージを語ることに教会や聖職者の目はますます厳しくなっていました。

ジャンヌ・ダルク騎馬像
(彼女が解放したオルレアン市の中央広場に建つ 現地撮影)

 当時フランス王の元で助言をする預言者は大勢いましたが、その中でジャンヌ・ダルクの預言はピタリと当たり、その噂が急速に広まったと言われています。 
 しかしこれはフランス側の見方であって、イングランド側は戦争で不利な状況にされたことでジャンヌ・ダルクの存在に恐怖を覚え、教会や神学者の要請もあり、教会裁判の結果、ジャンヌ・ダルクは処刑されました。その後、しばらくジャンヌ・ダルクはあまり関心を持たれてはいませんでしたが、フランスの軍人ナポレオンが国民統合や政権の正当性主張のために戦う際のシンボルとしてジャンヌ・ダルクを宣伝すると(プロパガンダ)彼女の献身的な愛と勇敢な正義感は世界中の人々から愛され、語り継がれるようになったといいます。

 左の写真はジャンヌ・ダルクの銅像です。ナポレオンがフランスのあらゆる市町村にジャンヌ・ダルクの銅像を建てることを奨励したことで、実際には彼女が足を踏み入れてない場所にまで銅像が建てられているそうです。ナポレオンのこのプロパガンダによってジャンヌ・ダルクが伝説化したと言っても過言ではありません。

歴史学から多様な価値観を知る

 佐藤准教授のもとで学ぶ学生は、500年~1800年頃の歴史からテーマを絞って研究を行っています。
 「その当時残された記録や文書、図像を読み解き、自分で解釈するのが歴史学の醍醐味だと思います。我々教員は色々なことを知った上で読むので硬い考えしか出てこないのですが、学生の意見を聞くと、『こんな考えもあるのか』と驚くことも多いです。学生たちの柔軟な発想が面白いです」
 歴史や文学の研究は今私たちが生きている世の中とつながっていないと考えられがちです。しかし、現在起きている新型コロナウィルス感染症や、ウクライナとロシアの戦争等の問題を考える上で非常に力を発揮することもあると佐藤准教授は言います。例えばウクライナとロシアが戦争をしている中に、ローマ教皇が間に入ったのはなぜかと疑問を持った時、百年戦争を学んでいればヨーロッパの歴史の流れの中でこれを説明できるようになるといいます。
 「私たちが疑問に思うことこそが実は一番大事な問題で、そこから研究や学問の探求が始まります。日本ではあまり知られていない歴史や伝説は多くあります。学生たちにはこうした歴史にも関心を持ってどんどん疑問を出し、これを自分で探求してほしいと思っています」と佐藤准教授は話します。
 歴史を学ぶことは現代社会で起こっている問題を自力で解明する力を培うことができ、現代社会に知恵として還元することもできます。日常で感じる疑問や不思議に思うことを少しでも調べてみることは歴史や文化を理解するきっかけにもなり、幅広い視野で物事を考えられるようになるといいます。 
 次々に新たな疑問が生まれる歴史の研究は百年戦争も例外ではありません。佐藤准教授自身もまだ定説の無い百年戦争の終戦や戦地に住む人々の暮らしについてなどの疑問を今後も一つずつ紐解きながら、更なる理解を深めていきます。

研究室の学生の声

教育文化学部 地域文化学科 国際文化コース
鈴木 芽唯 さん

 私は小・中学校の頃から歴史が好きで、高校で中世から近世にかけてのヨーロッパ史を学んだ時、その面白さに惹かれました。大学ではこれまで勉強してきたことをより専門的に学びたいと思い佐藤先生の研究室に入りました。特に宗教と政治の関わりに興味を持ち、グレゴリウス改革や教皇のバビロン捕囚、ユグノー戦争等、中世の歴史の中で政治と宗教の関わり合いにどんな思想が展開されていたのかを調べています。
 ギリシャ時代の思想を用いながら新しい思想の体系を作り上げたトマス・アクィナスという思想家がいます。私はトマス・アクィナスの思想とそれが提示されるまでに当たり前とされてきたキリスト教の思想を比較し、新しい発見が無いかを探っています。当時の歴史と関連付けて文献などを読むとまた違って見えるので面白いです。これからも興味を持ったことには積極的に取り組んでいきたいと思っています。

(取材:広報課)
※掲載内容は取材時点のものです

教育文化学部 地域文化学科 国際文化講座 国際文化コース
准教授 佐藤 猛 Takeshi Sato
  • 北海道大学 文学部 史学科・西洋史学専攻 1998年3月卒業
  • 北海道大学 文学研究科 歴史地域文化学専攻 博士課程 2005年6月修了
  • 日本学術振興会 特別研究員PD 2007年4月~2008年3月
  • アンジェ大学 文学・言語・人文学部 客員研究員 2015年3月~9月
  • 【取得学位】
    北海道大学 文学博士
    北海道大学 文学修士
  • 【所属学会・委員会等】
    西洋中世学会、東北史学会、秋田大学史学会、西洋史研究会、史学会、日本西洋史学会、北大史学会、日仏歴史学会