臨床へ活かす感染制御の研究で地域に還元したい
見えざる病原体の感染拡大防止策と感染予防策の研究
私たちの身の回りには目に見えないウイルスや細菌などによって起こる感染症にかかるリスクが多く潜んでいます。感染症とは、環境中などに存在する微生物が人の体内に侵入して引き起こす疾患です。微生物には、細菌やウイルス、真菌(カビ)などがあり、その中で感染を引き起こすものが病原体と呼ばれます。これらの感染を制御するには、病原体の感染源と感染経路を理解することが重要となります。
嵯峨准教授は、感染対策の連携強化や院内感染、新興感染症対策や薬剤耐性菌についての研究のほか、渡航外来の開設や渡航前教育にも力を注いでいます。
人類は未知なる感染症と戦ってきた
感染症は人類がその原因が認識できなかった時代にも当然存在していました。紀元前、ヒポクラテスは穢(けが)れた空気との接触が病気の原因となる「ミアズマ」説を唱えました。またフラカストロは、患者さんと直接接触することで感染する「コンタギオン」説を唱えています。
その後、オランダの科学者レーウェンフックが自作した顕微鏡で微生物を発見しました。そして、ドイツの医師・細菌学者コッホは微生物が病気を引き起こす原因になる場合があることを明らかにしています。これまでに天然痘やペスト、スペイン風邪などの感染症の世界的大流行では多くの尊い命が失われました。
日本でも、1930~40年代は結核や肺炎などの感染症が人の死因の大部分を占めていましたが、当時はまだ根本的な治療法がありませんでした。しかしその後状況は一変し、“魔法の弾丸”抗生物質時代の幕開けとなります。
この大きな変化の要因にはインフラの改善や栄養状態の向上、医療技術の進歩もありましたが、一番はイギリスの医師フレミングによる抗生物質『ペニシリン』の発見で、感染症に非常に有効な治療法が見つかったことです。さらにワクチンの開発と導入により、天然痘は人類が根絶した唯一の感染症となりました。また、ポリオはワクチンのおかげで日本では1980年以降発生していません。
その後1980~90年代は感染症は薬で治る時代となり、「感染症の医書を紐解く必要がなくなった」「感染症は終わった」などと言われることもありました。
しかし、2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)、2009年の新型インフルエンザ、2012年のMERS(中東呼吸器症候群)、 2014年のエボラ出血熱、 そして2019年の新型コロナウイルス感染症などの新興感染症の流行が続き、感染症は国境を越えて瞬く間に広がる時代となりました。特にSARS発生以降、治療や予防が確立していない感染症に立ち向かうために、感染制御の重要性が認識されています。
嵯峨准教授は、感染症対策の現場はこれら新興感染症対応で段階的に鍛えられ向上してきたからこそ現在の新型コロナにも何とか対応できているように感じるといいます。しかし病原微生物の存在が明らかになった現代でも、目に見えない病原体の脅威は昔も今も変わることはありません。
「だからこそ病原体が“見えずともそこに存在していること”を認識することが感染症と戦うキーワードとなるでしょう」と嵯峨准教授は言います。
空白地域への渡航外来の開設
秋田大学医学部附属病院は、秋田県内唯一の大学病院であり特定機能病院です。嵯峨准教授が率いる感染制御部には地域のグローバル感染症対策の必要性から、いろいろな対策を講じてほしいという声が寄せられています。
秋田県の海外渡航者数や訪日外国人数は全国的に見ると少なく、大都市と比べてリスクは小さいとはいえ、秋田から海外に渡航する人々は存在します。渡航外来はこれから海外渡航する方への医療や医学的助言を提供する外来で、日本でも都市部には増えてきています。しかし、秋田県のみならず東北地方や日本海側の非大都市部には渡航外来が開設されていない「渡航外来空白地域」が多く残されていました。
そこで嵯峨准教授は秋田の渡航者の健康を守るため、2018年11月に総合診療部内に渡航外来を開設したのです。
海外は日本とは環境が大きく異なり、一般に感染症にかかるリスクが高く、流行している感染症の種類にも相違があるため、衛生管理には特に気をつけなければいけません。感染症にはワクチンや予防薬で防ぐことができるものもあり、子供の頃から受けてきた予防注射記録も参照しながら必要な医療を検討します。
渡航外来では、渡航先や滞在期間、現地での活動予定からリスク評価し、そのリスクに応じた生活指導を渡航医学認定医、国際旅行医学認定医、感染症専門医等の専門医が対応できる体制を整備して開設されました。開設から受診者は年々増加傾向にあり、県外からの受診者や問い合わせも増えています。
渡航学生の海外実習に対応した渡航前教育の試み
秋田大学国際資源学部では、グローバル資源人材養成のため3年生は海外資源フィールドワークを必修としています。この海外実習のために渡航する学生の健康を守ってほしいという要請がありました。渡航先には開発途上国が多く含まれ、しかも野外実習活動を主とする、渡航医学の観点からはリスクが低いとは言えない渡航です。
この要請を受け、2016年から渡航学生に向けて渡航前教育を開始し、その立案と実施を行いました。これは渡航中の健康問題とその対処法、海外渡航の安全と予防について、また渡航前後の対応などを事前に把握しながら学ぶことができるようにしたものです。
渡航前教育は、教養教育科目「医学と健康IA/IB」(現在は「医学と健康IC」)の中で、信頼できる情報源を元に渡航学生がみずから調べるという演習を組み込んだプログラムで進められます。これらの対応策を講じたことで海外資源フィールドワーク参加者に重大な健康支障の発生は起きていないのだそうです。
第一種感染症病棟HIDUの運用と新興感染症への備え
独立した病室には様子がわかるようカメラも設置されている
遠隔で誘導できるシステムとなっている
感染症には危険度に応じた感染症対応の分類規定があり、その危険度で1~5類に分けられています。1類感染症は、エボラ出血熱やペストなど、強い感染力と罹患した場合の重篤性などに基づく総合的観点から見て危険性が極めて高い感染症です。現在世界で流行している新型コロナウイルス感染症は、結核やSARS、MERSと同様に2類に相当する位置づけにされています。
これまで秋田県内では、1類のエボラ出血熱などの危険性の高い感染症に対応できる安全な入院診療施設がありませんでした。そこで秋田大学医学部附属病院は、秋田県からの要請を受けて第一種感染症病棟である高度感染症ユニット棟HIDU(High Level Infectious Disease Unit)を建設し、2017年4月から県内で唯一運用開始しています。嵯峨准教授は、発足時からコアメンバーとして施設の設計や設備、運用に至るまで関わってきました。
この高度感染症ユニット棟は独立病棟になっており、ウイルスや細菌などの病原体が外部に漏れないよう、高性能フィルターで浄化する空調設備、高温高圧処理で病原体を殺滅処理する装置や排水処理施設を備えています。また、患者さんへの配慮と同時に、スタッフの健康と安全を守ることも重要です。そのため独自のマニュアルを策定し、診療を担当するスタッフを映像と音声で誘導できるよう工夫した遠隔監視誘導体制を開発して整備しています。
耐性菌の広がりを抑え、抗菌薬を正しく使う
細菌が原因で引き起こされる感染症に対して、細菌の増殖を抑制する治療薬が「抗菌薬」です。抗菌薬は抗生物質や抗生剤とも呼ばれる薬が含まれます。前述の通り、抗生物質が開発されたことで細菌による感染症の多くが治療できるようになりましたが、薬に対する抵抗力を持った耐性菌が増加しています。いずれ薬が効かなくなり抗菌薬がなかった時代に逆戻りしてしまうことが世界的に危惧されています。このまま無為無策で耐性菌が増え続けた場合には、薬剤耐性に起因する死亡者数は2050年には年間1,000万人にのぼり、がんで亡くなる方よりも多くなると試算されているのです。
細菌は、抗菌薬に耐えられるように自らの性質を変えて生き残ろうとします。その結果生まれた耐性菌の感染症治療のために新たな別の抗菌薬を使うと、今度はそれに対する耐性菌が生じるということが繰り返され、細菌と抗菌薬とのいたちごっこになっているのです。
必要のない抗菌薬を使用したり、処方された抗菌薬を途中で中途半端にやめてしまったりすると耐性菌が現れやすくなり、やがてそれが周囲の人へ広がっていく危険があるといいます。特に免疫力の弱い人や高齢者、持病のある人は耐性菌による感染症にかかると重症化しやすく、使用できる抗菌薬も限られてしまうため、薬剤耐性の拡大防止はとても重要になります。
耐性菌を減らすためには医療現場で正しく抗菌薬を使うようにするだけではなく、動物や環境にも目を配って地球全体として取組む必要があるという「ワンヘルス(One health)」と呼ばれる概念があります。
抗菌薬は人だけではなく幅広い分野で用いられていて、なかでも畜産業では、感染症の治療以外に発育促進の目的で飼料に抗菌薬を混ぜることもあります。
私たち人間に投与する抗菌薬使用を制御することは重要ですが、家畜に生じた薬剤耐性菌が食肉を通じて人に伝播して人間の感染症の原因となることもあるため、病原体が人から人に伝播するのみならず人以外の動物や環境からの広い意味で横の移動があるという概念は非常に大切です。こうした薬剤耐性菌対策は、まさにワンヘルスの観点から取り組むべき課題だと言えるでしょう。
渡航で獲得される耐性菌の地域への侵入抑制と抗菌薬の適正使用
海外渡航は感染のリスクが増す場合がありますが、耐性菌獲得の機会にもなると言われ始めています。このため嵯峨准教授は、渡航外来を受診した方の便や鼻の粘液を採取し、渡航前と後とを比較することで、渡航で獲得された耐性菌を直接評価することができるのではないかと考えました。
「渡航者から分離された菌株と地域の臨床現場で分離された菌株を次世代シークエンサーで高精度評価することで、渡航が地域の耐性菌の増加にどのくらい影響を与えたか、与えるかを直接評価できます。この比較評価で秋田県の渡航者を守りつつ、耐性菌を減らすための手立てを研究することで地域に還元できないかと考えています」
さらに、嵯峨准教授は秋田大学医学部附属病院に抗菌薬適正使用支援チーム「AST(Antimicrobial Stewardship Team)」を2020年4月に発足させました。抗生物質の処方を希望する患者さんには、必要な場合にのみ抗生物質が処方されることを広く知ってもらうのもその活動の一つです。
「たとえば、風邪の原因の多くは細菌ではなくウイルスなので抗生物質は効きません。正しい抗生物質の使い方を広く一般の方にも知ってもらいたいと思います」と嵯峨准教授は言います。
新型コロナウイルス感染症の現状と展望とは
「感染症と戦うには診断・治療・予防・制御の4つが重要となります。現在の新型コロナウイルス感染症の場合、『治療』の抗ウイルス薬はまだ十分有効とは言えませんし、『予防』のワクチンをしっかり行き渡らせることで感染者は減少することが期待されますが、現在のワクチンの効果やそれがどのくらい持続するかについては流行状況の影響を受けます。
新型コロナは地球規模で蔓延していて、検査による診断もワクチンも行き届かない地域が多くあるため、終息するにはまだ時間がかかると思われます。ワクチン接種を突破口として感染・流行の規模を抑えながらこの先も新型コロナ対応を続けていくことになるでしょう。
秋田県は全国的に見て感染者が少ないのは、皆さんが高い意識を持って感染予防に努めているからだと思います。このまま油断せず、今後も感染対策はしっかり取っていただきたいですね」と嵯峨准教授は語ります。
感染症学の権威である山口惠三先生と賀来満夫先生、それに舘田一博先生らの恩師から学んだ数々のことは、現在の嵯峨准教授の取組みの礎となっているといいます。そのひとつに『臨床で役に立つ研究』を実践することがあります。トランスレーショナルリサーチ、すなわち医療と基礎研究との橋渡しとなる研究をすることです。
嵯峨准教授は、目に見えない病原体から私たちを守るために最前線で戦いながら、その研究を社会に還元するための努力を惜しまず日々尽力しています。
私たちが『感染症と感染対策を正しく理解する』ことは、安心して暮らすための第一歩に繋がります。1人1人がしっかりと感染対策を行いながら、新型コロナウイルス感染拡大の困難が1日でも早く終息するように祈らずにはいられません。
(取材:広報課)
※掲載内容は取材時点のものです